桜色の海に恋は沈みて

物思いに耽ることは海に潜ることに似ている気がする

苦しいままでいいのに

「苦しいままでいいのに」

 苦しんでいる人はたくさんいる。悲しいことに事実だ。

 じゃあ僕は?

 きっと苦しんでいることに苦しんでいない。中途半端なところにいる。

 僕はある疑問を抱いた。

「何故人は苦しみから逃れようとするのだろう」

 別に苦しいままでもいいのに、と僕は思ってしまう。苦しいことは別に嫌ではないからだ。この感覚を理解されたことはない。

 たとえば、原稿の締め切りに終われている苦しみは、正直違法薬物に匹敵する快感があると思っている。終われば気持ちいい。そしてとてつもなく虚しくなる。「脱稿ハーブ」という言葉を作った人は天才かもしれない。

 病の苦しみはどうか。正直、双極性障害なんて病は治ることがない。寛解はしても完治はない。僕自身それを受け入れている。受け入れていると言うより「諦めている」と表した方が的確かもしれない。だから今更苦しいとも思わないし、嫌だとも思えない。嫌だと思ったところで救いなんてないのだから、受け入れてしまえばいい。

 苦しんでいることに苦しむ人は諦め切れていない人。救われたいと願ってしまう人。まだ救われる可能性があるだなんて信じちゃっている人。

 そういう人をただ傍観している。

 僕は大して苦しんでもいない、と自嘲した。

 あがくから苦しくなるし、溺れたときは暴れるより力を抜いた方が楽になれる。それで死んだって別に困らない。

 助けて欲しいとすがられるとどうしても困ってしまう。

 ナイフは抜いたら出血が酷くなる。別に苦しいままでいたらいいのに。

 希望を与えることも中途半端に助けることもしたくない。その先にあるのは絶望だ。

 苦しいままでいいや、と諦めることは、静かなる自傷だ。

破局指輪

 高校生のとき、付き合っていた彼氏とペアリングを買った。ショッピングモールの中に入っているロック調のアクセサリーショップで店員さんにサイズを測って貰って選んだ。必要な肉もないほど痩せた彼の指は僕の指より細くて、店員さんは彼にレディースの商品を薦めた。彼は頑なに男性向けのデザインを選び、そして僕には同じデザインの女性向けモデルを買った。ひとつ六千円はしたと記憶している。高校生にしては大金だ。素直に嬉しいとは言えなかったけれど、喜んでは見せた。

 彼と僕は携帯電話のストラップとしてチェーンに指輪を通して学校にも持って行った。家にいるときは左手の薬指に。眠るときは枕元に置いた。恋愛に終わりはないと信じていた。それほどまでに僕たちは幼かった。

 僕はいわゆるゴスロリV系、原宿系と表現されるファッションが好きだった。耳には大ぶりのイヤリング。首にはチョーカー。足にはガーターリングをつけることもあった。そして指にも大ぶりの指輪をつけたいと思っていた。そのようなファッションを心から楽しんでいた。

 しかし彼は快く思っていなかった。

「怖い」「肌触りがよくない」「女の子らしくない」

 そうやんわりと確かな棘を持って僕の好きを否定した。

 一緒に買い物をしていたとき、チェーンのプチプラアクセサリーショップに立ち寄った。目に留まった指輪を手にとって「これ可愛いな」と僕は言った。彼を見ると、驚くほど冷たい目をしていた。

 彼が口を開く。

「ねえ、指輪はペアリングしかしないって言ったよね? 約束したよね? 特別じゃないの?」

 冷淡に、そして早口で僕をまくし立てた。僕は憮然として指輪を棚に戻し、そのままデートを続けた。彼の機嫌が戻ることはその日のうちはなかった。

 積もり積もった彼への鬱憤を爆発させ、僕はきっぱりと別れを告げた。

 別れ話の帰り道、その足でアクセサリーショップへ向かい、僕が可愛いと言った指輪を買った。ひとつ五百円だった。左手の親指にはめて、左手の薬指からペアリングを抜き取った。

 僕の指は僕のものだ。自由でいられないのなら恋なんてしない。

 親指の指輪は強い意志を守ると言われている。

 自分を殺す恋なんて、もうしないと誓った。

違うと理解できない母

 2019年、ワールドカップラグビーが日本で行われた。メディアも街も大騒ぎ。ラグビーを扱ったドラマが放送されたり、ラグビー選手がバラエティー番組に出演したり、と大きな盛り上がりを見せた。

 そんな中、僕はラグビーが苦手だと言わせてもらえなかった。

 スポーツ自体は嫌いではない。運動をすることは得意ではないけれど見る分には楽しいし、流行り物だからと特別嫌悪しているわけでもない。

 でもなぜ苦手なのか。それは、音だ。

 僕には自閉症スペクトラムがあり、その特性のひとつとして「感覚過敏」というものがある。僕の場合、聴覚に強く表れており、些細な音が気になったり大きな音に驚きすぎたりする。また騒がしい場所での会話が困難であったり、うまく聞き取れない(聴覚に問題はない)ため電話をすることができない。

 スポーツ自体は嫌いではないが、応援の歓声がどうにも耳障りでならない。ラグビー以外ではサッカーの歓声も煩くてつい耳を覆ってしまう。野球は応援に音楽が使用されているためなのか何故か平気だ。音のありかたにもこだわりがあるようだ。

 煩いなら見なければいい。それはごもっともだ。しかしそれを許さなかったのは母だ。

 僕は実家暮らしのため食事は家族で揃って取る。夕食時、ダイニングから続くリビングのテレビではラグビーの試合中継が流れていた。

「音が苦手だからご飯食べる間テレビを消していい?」と母に尋ねた。母はもちろん僕に自閉症があることは知っている。しかし返事はこうだった。

「今見てるからいいじゃん。お父さんも見てるし。それにそんなうるさくないよ」

 母は自分と他人の境界がない人だ。

「お母さんにとってはうるさくなくても僕にはうるさいの」

 そう主張しても「そんなことないって」と返す。

 どうしてあなたは自分と他人が違うことを認めないのだろうか。

 自室で食べるから持って行っていいかと聞くと、そんなのダメに決まってるという謎のこだわりを押しつけられた。

 結局、僕はご飯を食べることなく自室に引きこもった。リビングからの音漏れに耳を覆い、ベッドの中でうずくまって空腹を忘れるために眠った。

 これを読んで僕の単なるわがままだと思うなら、あなたも僕とあなたの感覚が違うということを理解できていない人だ。何が個人にとって耐えがたい苦痛なのかは違うのだから。

 食事中にテレビが切れないのならラグビー中継が終わってから食事をすることも選べたかもしれないが、日本中が熱狂していたあのときはいつだって試合風景が繰り返し放送されていた。ワールドカップラグビーが終わったとき心から安堵したのを覚えている。

 2020年は東京オリンピックだ。またあの熱狂と騒音の日々がやってくるのだと思うと気が滅入る。せめて自衛させて欲しかった。水を差すようなことは言わないから、と。