苦しいままでいいのに
「苦しいままでいいのに」
苦しんでいる人はたくさんいる。悲しいことに事実だ。
じゃあ僕は?
きっと苦しんでいることに苦しんでいない。中途半端なところにいる。
僕はある疑問を抱いた。
「何故人は苦しみから逃れようとするのだろう」
別に苦しいままでもいいのに、と僕は思ってしまう。苦しいことは別に嫌ではないからだ。この感覚を理解されたことはない。
たとえば、原稿の締め切りに終われている苦しみは、正直違法薬物に匹敵する快感があると思っている。終われば気持ちいい。そしてとてつもなく虚しくなる。「脱稿ハーブ」という言葉を作った人は天才かもしれない。
病の苦しみはどうか。正直、双極性障害なんて病は治ることがない。寛解はしても完治はない。僕自身それを受け入れている。受け入れていると言うより「諦めている」と表した方が的確かもしれない。だから今更苦しいとも思わないし、嫌だとも思えない。嫌だと思ったところで救いなんてないのだから、受け入れてしまえばいい。
苦しんでいることに苦しむ人は諦め切れていない人。救われたいと願ってしまう人。まだ救われる可能性があるだなんて信じちゃっている人。
そういう人をただ傍観している。
僕は大して苦しんでもいない、と自嘲した。
あがくから苦しくなるし、溺れたときは暴れるより力を抜いた方が楽になれる。それで死んだって別に困らない。
助けて欲しいとすがられるとどうしても困ってしまう。
ナイフは抜いたら出血が酷くなる。別に苦しいままでいたらいいのに。
希望を与えることも中途半端に助けることもしたくない。その先にあるのは絶望だ。
苦しいままでいいや、と諦めることは、静かなる自傷だ。