消極的自傷
「消極的自傷」
僕がひどく体調を崩していたときのこと。
薬を飲まなくなった。ご飯を食べなくなった。眠らなくなった。誰にも頼ろうとしなかった。
助けてと言うことすら許されない感覚。
「僕は苦しんで当然だからこのままでいい」という嘲笑を僕自身に浴びせ、何もしなかった。 苦しんで当然。そのままでいい。お前なんかどうなったって構わない。
ネットで「消極的自傷」という言葉を見つけたのも同時期だった。
対義語である「積極的自傷」とはよく想定されるオーバードーズやリストカットなど、自ら自分に危害を加えることだ。マイナスを与えるとも表現できる。
では「消極的自傷」とは何か。
一言で言うならば、マイナスでいることから回復しようとしないことだ。
体調が悪くても何もしない。悪いままでいる。そして自然に悪化させる。
お腹が空いていても食べない。拒食のようでもあるが、激しい拒絶ではなくただ食べようとしない。
眠くても眠ろうとしない。眠ることは現実逃避だからしてはいけないと自分に命令する。
困っていても誰にも頼ろうとしない。自分が苦しんでいてもそのままでいい。
悪い状態のまま何もしない。
セルフネグレクトとでも言おうか。自身の不調への対処を放棄するのだ。
薬を飲むことを拒んだ僕は当然のごとくぼろぼろになった。それでも誰にも頼らずひとりで病魔に苦しんだ。苦しんでいることが当然だと笑いながら。
入院することなり、やっとの思いで主治医に話すと「自分を大切にできるのは自分だけだ」と至極当然のことを言われた。
自分を大切にできないことも、自傷行為なのだ。
自殺未遂した友人に何も言わない僕
「自殺を図った友人に何も言わない僕」
僕の友人が自殺を図ったことがあった。自宅で首を吊って意識不明だと発見した別の友人が代わりにツイートしていて知った。
自殺を図った友人のアカウント、そして知らせた友人のツイート宛てにたくさんのリプライがついた。
あまりに気味が悪くて、僕は画面を睨み付けたまま電源を落とした。
送られたコメントは大きく分けて3パターンあった。
1つ目は心配する声。どうか生きていて。死なないで。元気になって。
2つ目は自責の念。私に何かできなかったのだろうか。どうして助けられなかったのか。
そして3つ目は怒り。死のうとするなんて。なんでそんなことするんだ。自殺なんて許さない。
自分のことしか考えていないんだな、と呆れてしまった。
心配するっていったって、自殺するまで何も気づけなかったくせに。
自分を責めて見せて、そうやって許されたいだけでしょ?
怒りをぶつけたところであなたが責められたくないだけでしょ?
自分を正当化することしか考えられない人々に辟易した。
どこが相手のためだ。エゴに気づけよ。
そう吐き捨てた。
僕は何も送らなかった。
友人は数日後、意識を取り戻した。
僕は友人が2度とTwitterを開かないことを願った。
こんな地獄、見ないで欲しい。
普通になりたいって、何?
「普通になりたい、って何?」
セクシャルマイノリティや障害のある人と関わっていると、いわゆる「普通」への憧れをよく聞く。
普通の恋愛がしたい。普通に結婚したい。普通に就職したい。普通の人になりたい。
なんだか、すごいなあと思ってしまう。
そんなに明確に「普通」像を持っているのだな、と。
僕の周りにはさまざまな人がいて、どちらかというと障害のある人の方が多く友人にいるし、セクシャリティもさまざまだ。
そうでなくて健康で異性愛者のシスジェンダーの人であったって皆、考えていることも歩んできた人生も、みんなバラバラ。それのどこのサンプルをとって「普通」としたらいいのか僕には分からないでいる。いや、普通を決めないことにしている。
普通になりたいと喘ぐ人々の「普通」像を聞いていると、それはまずいな、と感じてしまう。
なぜなら彼らは「普通」の理想が高すぎるのだ。
異性にのみ恋をして、適齢期に結婚して、幸せな家庭を築き、仕事も安定して休みもあって給料も困らない程度にある。学校はストレートで大学まで卒業していて、精神科への入院歴もなく、障害者手帳も持っていない。子どもも望めばできて、子どもはもちろん健常者。
そうやって自分が「普通」だと思っている人の複数から「羨ましい部分」をそれぞれピックアップして、それを全てクリアできる人を「普通」と呼んでいるような気がする。
実際に全てクリアしている人を僕は見たことがない。少ないサンプルだからかもしれないが、これではあまりにも「普通」の条件を高めすぎている。
手が届かない「普通」を自分の中で作り上げて、普通になれないと苦しむのは愚かだ。
せめて「普通」の基準を見直して欲しいと願う。自分の首を絞めきる前に。
僕は、普通を追い求めるつもりはないけれど。