桜色の海に恋は沈みて

物思いに耽ることは海に潜ることに似ている気がする

普通になりたいって、何?

「普通になりたい、って何?」

 セクシャルマイノリティや障害のある人と関わっていると、いわゆる「普通」への憧れをよく聞く。

 普通の恋愛がしたい。普通に結婚したい。普通に就職したい。普通の人になりたい。

 なんだか、すごいなあと思ってしまう。

 そんなに明確に「普通」像を持っているのだな、と。

 僕の周りにはさまざまな人がいて、どちらかというと障害のある人の方が多く友人にいるし、セクシャリティもさまざまだ。

 そうでなくて健康で異性愛者のシスジェンダーの人であったって皆、考えていることも歩んできた人生も、みんなバラバラ。それのどこのサンプルをとって「普通」としたらいいのか僕には分からないでいる。いや、普通を決めないことにしている。

 普通になりたいと喘ぐ人々の「普通」像を聞いていると、それはまずいな、と感じてしまう。

 なぜなら彼らは「普通」の理想が高すぎるのだ。

 異性にのみ恋をして、適齢期に結婚して、幸せな家庭を築き、仕事も安定して休みもあって給料も困らない程度にある。学校はストレートで大学まで卒業していて、精神科への入院歴もなく、障害者手帳も持っていない。子どもも望めばできて、子どもはもちろん健常者。

 そうやって自分が「普通」だと思っている人の複数から「羨ましい部分」をそれぞれピックアップして、それを全てクリアできる人を「普通」と呼んでいるような気がする。

 実際に全てクリアしている人を僕は見たことがない。少ないサンプルだからかもしれないが、これではあまりにも「普通」の条件を高めすぎている。

 手が届かない「普通」を自分の中で作り上げて、普通になれないと苦しむのは愚かだ。

 せめて「普通」の基準を見直して欲しいと願う。自分の首を絞めきる前に。

 僕は、普通を追い求めるつもりはないけれど。