桜色の海に恋は沈みて

物思いに耽ることは海に潜ることに似ている気がする

死んだら忘れられたい僕

 一定期間稼働していないTwitterアカウントを自動削除する方針をTwitter公式が発表し、反対する多くの声を受けて取り止めになった。アカウント削除に反対する声を覗いてみると、多くは「故人のアカウントを残してほしい」という要望だった。

「人は二度死ぬ。一度目は肉体的に死んだとき。二度目は人々に忘れられたときだ」という言葉を引用して訴えている人もいた。二度目の死を避けようとする人々もいるのだと驚いた。

 同時に、大学の国語音声学の講義を思い出した。快活な口調で冗談を交えながら言葉のあり方について語る教授の講義はさながら漫談のようだった。

 教授は「ら」抜き言葉についての見解をこう述べた。

「今は「ら」抜き言葉は正しくないとされる。しかし「ら」抜き言葉は50年後には正しくなる。なぜなら正しくないと主張する世代が50年後には死に絶えるからだ」

 教授は「僕は50年後には死んでいるので、「ら」抜き言葉が正しい世界を見ることができない。残念だなあ」と付け加えて笑いを誘った。

 時代によって考え方は移り変わる。女性が参政権を得た。同性愛が精神病でなくなった。セクハラやパワハラが問題視されるようになった。それらは啓蒙の成果でもあるだろう。

 しかし教授が言うように「古い価値観の人が死に絶える」から価値観が変わっているとしたら。

 大人になってから小学生と接する機会があった。ある子供に「ねえねえ、ランドセル何色だった?」と聞かれた。僕の性別が分からないという意味が含まれていた。「赤色だったよ」と答えると「嘘だぁ!」と驚かれた。黒だと思ったのかと「じゃあ何色が似合う?」と意地悪く聞いてみた。その子は少し考えて「うーん、ブラウン」と答えた。「僕の頃はブラウンのランドセルはなかったよ」と言うと「えー? なんでー?」と心底不思議がられた。

 そうか、僕の常識も価値観も小学生からしたら古いんだ。

 この古い価値観は生きてきた記憶と経験によって作られた。ならば、意識して変えない限り、歳を取れば取るほど僕の価値観は古くなるのではないか。

 故人のTwitterアカウント削除を反対する声に、僕は賛同できなかった。

 死んだら忘れられたい。悪しき古い価値観を後世に残さないために。二度目の死を喜んで受け入れようと僕は決意した。