桜色の海に恋は沈みて

物思いに耽ることは海に潜ることに似ている気がする

「許せないことは許せなくていい」の二面性

 僕には許せないことがある。何が、とはここでは言わないけれど、それなりに許せないことはある。許せなくてもいいと僕は知っている。

 

「許してあげなよ」という言葉は他人に向けてはいけない言葉だな、と思ったことがある。

 精神疾患がある友人がいた。友人と言ってもSNS上でたまに言葉をかわす程度の関係だ。

 彼女は未成年で、被害妄想や希死念慮に悩んでいた。そのようなことを話した上で「親が病院に連れて行ってくれない」とタイムライン上で話し始めた。

「病気があることを否定する親が憎い」

「学校の先生が母に私を病院へ連れて行くように言ったら激怒して私を学校へ行かせてくれなくなった」

「こんな毒親死んでしまえばいいのに」

 実の親への深い恨み。ネグレクト同然の仕打ち。僕にとっては当然の感情だろうと感じた。

 しかし、よく思わない人もいた。

「親にそんなこと言うなんて」

「親だって人間なんだから」

「そんなこと言っても仕方ないのだから許してやりなよ」

 無責任な人もいるものだと僕は呆れた。許せないことは許さなくていいのに。許すことが美徳だとする価値観に僕は辟易した。

 許す許さないは本人が決めることで、他人が勧めてはいけないことだ。僕は彼女のつぶやきをもう一度読み直してからそっとアプリを閉じた。

 

 あるとき、少しばかり交流のあった人に縁を切られた。僕が何かまずいことをしてしまったかもしれないし、単純に気が合わないからかもしれないし、答えは彼女に聞いてみなくては分からない。

 けれど僕は「彼女には許せないことが僕に対してあったのだな」と思ったと同時に「許せないことならしょうがないかな」と諦めてしまった。

 この諦めは果たして正しかったのだろうか。

 人としての間違いを犯してしまった可能性があって、そんな自分を問いただすことを放棄するために「許せないことは許せなくていい」と本来とは違う用途で使っていないだろうか。

 許しを請うようなことは連絡手段のない今はしようがない。それに縁を切りたいほどの相手にさらに付きまとわれるのもきっと迷惑だろう。

 結局どうすることもできないまま、離れていった彼女を時折思い出しては悲しくなった。

 

 他人を許すための「許せないことは許せなくていい」と自分を甘やかすための「許せないことは許せなくていい」。

 僕は自分のことを許さなくてもいいのだろうか。